【山本勘助】諸国を渡り歩き、兵法を極めた男

 山本勘助は、戦国時代最強と謳われた武田信玄の軍師として広く知られた人物で、20代の頃に九州、四国、中国地方と諸国を遍歴し、兵法や築城術を極めたとされています。しかし、隻眼で片足が不自由であるという異形の容姿から、諸国の大名から召し抱えられず、9年間も浪人として不遇な生活を過ごしました。晩年は若き武田信玄からその才を評価され、奇策を用いて武田軍に多くの勝利をもたらし、最後は川中島の戦いで壮絶な死を遂げました。

人物概要

  • 生誕:1493年または1500年
  • 死没:1561年、第四次川中島の戦いで戦死
  • 出身地:三河国宝飯郡牛窪(現在の愛知県豊川市牛久保町)

実在の証明と実像の探求

 山本勘助の史料は、江戸時代に書かれた「甲陽軍鑑」という軍学書が主です。この軍学書は、武田信玄の実績や、山本勘助の活躍も記されており、江戸時代の武士道形成に大きな影響を与えています。しかし、明治期に入ると、知識の対象を観察や実験によって確認できる経験的な歴史学に重きを置くようになり、一次史料として扱われない甲陽軍鑑以外に、山本勘助の存在を示す史料が見出されなかったため、その存在を疑問視されるようになりました。

 この定説に一石を投じたのが、昭和以降に発見された古文書です。「市河家文書」や「真下家所蔵文書」といった、武田氏に仕えた家臣たちの文書の中から、山本勘助という家臣の名が記されていることが確認されました。この発見が持つ意味は大きく、山本勘助の架空人物説を覆すことになりました。

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この事例は、歴史的な真実が、現代までの緻密な史料批評や、時代の進行による偶然の発見に依存しているかを示す例であり「歴史も常に動いており、動的である」ことを物語っています!

山本勘助の史料
甲陽軍鑑

武田信玄、武田勝頼の事績や軍法などを記した戦国時代の軍学書。江戸時代を通じて武士の行動規範や思想、武士道の原型を知る上で重要な文献とされています。

市河文書(いちかわけもんじょ)

平安時代末期から戦国時代にかけての約400年間にわたり、信濃国の在地豪族であった市河氏と、その外戚である中野氏に伝来した古文書群の総称です。山本勘助の名前が使者として記されているものがあります。

真下家所蔵文書(ましもけしょぞうもんじょ)

群馬県安中市の旧家である真下家が所蔵していた古文書群です。山本勘助が活躍したことを賞し、恩賞として100貫文を与えることを記した文書が残されています。

伝説とは異なる山本勘助の姿

 山本勘助は、諸国での武者修行の旅を終え、37歳の時に駿河国に入り、今川義元に仕官しようとします。しかし、今川義元は勘助が「隻眼で足が不自由な異形」を忌み嫌い、家臣として登用することを拒みました。

 甲陽軍鑑の中でさえ、彼のことを軍師と呼んでいる箇所は一度もありません。江戸時代に入り、講談などの大衆芸能が流行する中で、彼の逸話は英雄譚として脚色され、万能の活躍を見せる天才軍師像が作りあげられていったのです。史実の山本勘助がどのような役割を担っていたのか、その実像は今なお研究が続いています。

山本勘助の異形
  • 隻眼:片方の目が見えなかったとされています。(どちらの目が見えなかったかは特定されていません)
  • 足が不自由:足が不自由であり、歩行に難がありました。
  • 無数の刀傷:顔などに多くの刀傷があったとされています。
  • 手の指の不揃い:手の指もそれっていなかったという説もあります。

 「啄木鳥戦法」は失敗に終わっていた

 山本勘助の代名詞といえば、第四次川中島の戦いで考案したとされる「啄木鳥戦法」です。別動隊が妻女山の上杉軍の背後を襲い、山を下りてきたところを信玄本隊が待ち伏せて殲滅するという壮大な作戦でした。しかし、皮肉なことに、彼の伝説を記した甲陽軍鑑そのものが、この策の完全な失敗を伝えています。上杉謙信は武田軍の動きを見破り、霧に紛れて事前に山を下り、手薄になった信玄本陣に攻撃をしかけたのです。

 甲陽軍鑑には、この戦いで「山本勘助討死」と、他の死者と並べて淡々としるされているだけです。後の軍記物では、策の失敗の責任を痛感した山本勘助が敵陣に突撃し、壮絶な死を遂げたという英雄的な物語へと昇華されていきました。最大の見せ場が、悲劇的な戦術の失敗であったという事実は、彼の物語の複雑さを象徴しています。

 史料が語る「山本勘助」と、物語が創りあげた「山本勘助」。その間に横たわるギャップこそが、彼の存在をより一層魅力的なものにしているのかもしれません。記録と物語が交差する中で、一人の武士の姿は、時代を超えて人々を惹きつけています。

当て推量や直感を意味する「ヤマカン」は、広く知られた説によると
言葉の語源は「山本勘助」であると言われています。
学術的に確定した説ではありませんが、辞書にも載るほど有名な俗説です。真偽はともかく、伝説の軍師の名が、現代の私たちの言葉の中に生き続けると考えると、非常に興味深い話ではないでしょうか(*^^*)?

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