【真田幸村】存在しない?あなたが知らない、戦国の英雄の驚くべき真実

 真田幸村と聞けば、多くの人が燃えるような赤い鎧をまとい、真田十勇士を率いて、徳川家康を追い詰めた不屈の英雄を思い浮かべるでしょう。その姿は、数々の小説や映画、ゲームで描かれ、私たちの心を掴んで離しません。

 しかし、私たちが知るその英雄像の多くは、後世に創られた物語かもしれません。そして、史実の人物は、伝説以上に魅力的で、驚くべき側面を持っていました。この記事では、歴史にその名を刻んだ真田幸村に関する驚くべき真実を解き明かしていきます。

その名は「真田幸村」にあらず。史実の英雄、真田信繁

  私たちが当たり前のように読んでいる真田幸村という名前。しかも驚くべきことに、彼が生きていた時代のいかなる歴史的文書にも、その名は登場しません。彼の歴史的に正確な名前は、真田信繁(さなだ のぶしげ)です。

 広く知られる「幸村」という名前が初めて登場したのは、彼の死後、江戸時代に書かれた「難波戦記」や「難波軍記」といった軍記物語の中でした。これは、史実の人物が物語の主人公へと生まれ変わる過程で与えられた、文学的な呼称なのです。

 なぜ名前が変えられたのでしょうか。それはおそらく、物語の主人公として、歴史的背景を持つ「信繁」から、力強い響きを持つ「幸村」へ、より英雄的で覚えやすい名前が求められたのでしょう。この名前の変更こそ、史実の人物が後世の人々の理想を投影したキャラクターへと変貌を遂げた、最初の根拠と言えるのかもしれません。

真田信繁の史料
難波戦記(難波軍記)

大阪軍記ともいう。大阪の陣についての軍記物で、寛文年間に編まれたとされている。真田信繁の通称である「幸村」の初出とされている。

猿飛佐助は20世紀生まれ?「真田十勇士」創造の歴史

 信繁を語る上で欠かせないのが、彼が支えた最強の家臣団「真田十勇士」です。しかし、彼らもまた、史実の家臣団ではなく、江戸時代から大正時代にかけて創作されたフィクション上の存在でした。

 特に衝撃的なのは、十勇士の中でも最も有名な忍者「猿飛佐助」も出自です。彼が物語に登場したのは、大正三年(1914年)のこと。これは信繁の死から約300年も後のことであり、いわば20世紀生まれのヒーローなのです。

 十勇士の伝説は時代と共に進化しました。初期の物語は、武勇に優れた侍として描かれましたが、大正時代に入ると、猿飛佐助のような超人的な忍者たちが加わり、物語はよりスペクタルなものへと変化しました。これは、英雄譚が時代ごとの大衆の好みに合わせて姿を変えてきた証拠です。

「日本一の兵!」最大の賛辞は敵陣から生まれた

 後世に創られた幸村の名や十勇士とは異なり、信繁の圧倒的な強さは、紛れもない史実です。その伝説の土台は、彼の死の瞬間に、敵自身の手によって築かれました。大阪の陣で信繁が討ち死にすると、敵である徳川方の諸将が、彼の武運にあやかろうと遺髪や遺品をお守りとして奪い合ったと記録されています。歴戦の戦士たちが、人知を超えた力を持つと認めた者に対して行う、畏敬と願望が入り混じった迷信的な行為でした。

 そして、彼の武勇を象徴する「日本一の兵」という称号が生まれます。この言葉の重みは、味方からの賛辞ではなく、信繁の最後の壮絶な突撃を目の当たりにした島津家の家臣が残した言葉なのです。戦場を共にした第三者の与えた評価が、彼の強さを証明するものになりました。

天才的な砦「真田丸」

 大阪冬の陣。信繁の軍事的才能が築いた出城「真田丸」は、大阪城の唯一の弱点であった南側を防ぐ鉄壁の要塞でした。徳川の大軍は、この砦の前で壊滅的な損害を被り、信繁の戦術は大きな成功を収めます。

 しかし、ここから歴史の皮肉が始まります。「真田丸」での戦術があまりに成功しすぎたため、総大将の徳川家康は力攻めを不可能と判断。老獪な家康は、戦いの舞台を物理的な戦場から政治的な交渉の席へと、巧みに移し替えたのです。

 和睦が成立し、その条件として大阪城の外堀はすべて埋め立てられてしまいました。結果、豊臣方は裸同然の城で翌年の夏の陣を迎え、場外での決戦を余儀なくされます。

信繁はなぜ豊臣家に尽くしたのか?

 なぜ信繁は、圧倒的に不利な状況で豊臣家への忠義を貫いたのでしょうか?それは単なる感情論や美談ではなく、彼の人生の政治的恩義に根差していました。

 転機は、豊臣秀吉による天下統一事業、小田原征伐の後に訪れます。この戦功により、真田家は長年仕えた徳川家の与力という立場から、秀吉直属の小大名へと地位を引き上げられたのです。信繁は秀吉個人の親衛隊である馬廻衆として仕える機会を得て、最高権力者の側で豊臣家への個人的な恩義と揺るぎない絆を育みました。

 彼が大阪城へ馳せ参じたのは、滅びゆく豊臣家への同情ではなく、自分たち一族を大名へと引き上げてくれた亡き主君、豊臣秀吉への恩に報いるための当然の務めだったのです。

まとめ

 史実の真田信繁は、伝説の「幸村」に劣らず、むしろより人間味があふれる戦略家でした。彼の物語は、史実という土台の上に、後世の人々の「真田信繁はかく合って欲しい」という願望や理想が積み重なることで、不滅の英雄像を創りあげたのです。

 真田信繁という一人の武将の生涯は、歴史と伝説の関係を鮮やかに映し出します。私たちは、彼の戦術眼と忠義に心惹かれ、その史実を土台に英雄として語り継いできた「真田幸村」という物語そのものを愛しているのでしょうか?史実の空白を創造で埋めることこそ、歴史を探求する面白さなのかもしれません。

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