【黒田長政】黒田官兵衛の嫡男、知勇兼備の武将とは?

 戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した名将、黒田長政。知勇兼備の武将として知られる彼は、父・黒田官兵衛とともに、幾多の戦いをくぐり抜け、乱世を生き抜きました。幼い頃には人質として生き延び、関ケ原の戦いでは東軍勝利の立役者となるなど、波乱万丈の人生を送った長政の魅力に迫ります。

人物概要

  • 生誕:1568年(永禄11年)
  • 死没:1623年(元和9年)
  • 出身地:播磨国姫路(現在の兵庫県姫路市)
  • 幼名:松寿丸

 黒田長政は、1568年(永禄11年)、織田信長が足利義昭を擁立し、上洛して勢力を拡大する時代に、播磨国姫路で黒田官兵衛の嫡男として生まれます。幼名は松寿丸。当時の播磨の国は、東から織田家、西から毛利家が迫ってきており、国内でも別所家、赤松家と繰り返し戦が行われており、父の官兵衛が小寺家の家老として活躍していました。

織田家への人質時代

 1577年、小寺家の嫡男・小寺氏職が病弱との理由から、松寿丸は織田家の人質として羽柴秀吉に預けられます。松寿丸は、近江の長浜城で、幼少期の加藤清正や福島正則らとともに、秀吉の妻ねねから寵愛を受け、充実した日々を過ごしていました。

 1578年、秀吉の中国攻めの最中に、有岡城の荒木村重が突如信長に反旗を翻します。村重を説得するため、官兵衛は有岡城に交渉に赴きますが、調略は失敗し、城内の土牢に捉えられてしまいます。「官兵衛が戻らない」との報告を受けた信長は、官兵衛が荒木方に寝返ったと判断し、「黒田家の人質、松寿丸を殺せ!」と秀吉に命令しました。

 信長の命令に対し、秀吉が苦渋の決断を迫られているとき、機転を利かせたのが竹中半兵衛でした。半兵衛は、秀吉に責任が被るのも避け、かつ官兵衛との友情を守るため、自らの居城である美濃菩提山城に松寿丸をかくまい、信長には「黒田家の人質は殺した」と虚偽の報告をしました。

 後に有岡城が落城し、官兵衛が助けられた時には半兵衛は既にこの世の人ではなく、信長はこの半兵衛の行いを許し、官兵衛も半兵衛に深く感謝したといいます。長政も、半兵衛からの厚志が忘れられず、彼の嫡男・竹中重門の次男をもらいうけ、福岡藩の筑前で高禄を与えて養育し、その恩に報いました。

竹中半兵衛

 彼の心を満たしているのは官兵衛に対する友情であった。この感情で事態に接した点が、信長や秀吉との違いであった。

 半兵衛は官兵衛に対して余人ではないと見ていたし、官兵衛の倫理観を考えて、彼が信長や秀吉を裏切るはずがないと考えていた。

播磨灘物語|司馬遼太郎

羽柴家の家臣時代

 本能寺の変で信長が横死すると、長政は父とともに秀吉に仕えます。毛利家への中国攻めの際に初陣を飾り、賤ケ岳の戦いや九州平定にも尽力し、黒田家は功績により、豊前国に12万5000石が与えられました。

 豊前の国人衆は、新参の黒田家に反発し、その中でも有力領主、城井鎮房の懐柔が難航しました。交渉により従属を誓わせることが困難であると判断した長政は、城井谷城に攻撃をしかけましたが、地の利を活かした城井方勢の戦術に苦戦をしいられます。持久戦の末、官兵衛の兵糧攻めにより、城井鎮房は娘を人質に出すことを条件に和議を申し出、黒田家に恭順しました。

 しかし、伊予国への移封など、ここまで命令を無視し続けてきたため、鎮房からの和議は、秀吉の承認を得ることができませんでした。長政は、和議未承認の件を知るや城井家の誅殺を決意し、中津城に鎮房を招き、酒宴の席で供まわりも含めて謀殺しました。

 官兵衛も、肥後国の一揆鎮圧の間、ともに出陣していた鎮房の嫡男・城井朝房を謀殺し、城井家の殲滅を図りました。

関ケ原の戦い

 1598年、秀吉が死去すると、徳川家康の力が強まり、文治派である石田三成との対立が深まっていきました。長政は家康の養女・栄姫を正室として迎え、徳川家と姻戚関係となり、天下人死後の混乱の時代、家康の勢力拡大に協力していました。

 1600年、家康が会津征伐に出陣すると、家康の留守を狙った三成が、豊臣方の兵を集結させ、西軍として大阪で挙兵しました。会津征伐に従軍していた長政は、判断に迷っていた福島正則などを調略し、東軍の戦力拡大に尽力します。本戦においては、鉄砲隊を率いて島左近を討ちとり、西軍の小早川秀秋や吉川広家を調略し、寝返らせることに成功し、東軍の勝利に大きく貢献しました。

 関ケ原の戦い後、徳川家康より「関ケ原一番の功労者」として感状を賜り、豊前の国から筑前国52万石に大幅に加増されました。また、この戦いでは、竹中半兵衛の子にあたる竹中重門が、長政軍に加わり戦っています。

まとめ

 その後、徳川政権下で、福岡藩の初代藩主として福岡城を築城や、博多の地で数々の産業を奨励し、1623年、上洛中に体調を崩し、56歳の生涯を閉じました。

 黒田長政は、両兵衛の影響を受け、知勇兼備の勇将として、豊臣・徳川政権下のいずれにおいても活躍し、数多くの武功を上げてきました。福岡市博多区の崇福寺は、黒田家の菩提寺として墓所があり、官兵衛とともに長政も祀られています。現代の福岡県の礎を作った長政は、今もなお多くの人々に慕われています。

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