
「黒田二十四騎」「黒田八虎」と謳われた猛将でありながら、主君である黒田長政との不仲から、浪人として大坂の陣に身を投じた後藤又兵衛。その武勇伝と悲劇的な最期は、今もなお多くの人を惹きつけてやみません。今回は、戦国時代を駆け抜けた孤高の英雄、後藤又兵衛の生涯に迫ります。
人物概要
- 生誕:1560年(永禄3年)
- 死没:1615年(元和元年)
- 出身地:播磨国神東群山田村(兵庫県南西部)
黒田家臣時代
黒田官兵衛は、播州時代、播磨の百姓や遺児を拾い上げ、後の黒田家の礎となる人材を養育していた。又兵衛も幼少のころ、父が病死したことから、官兵衛に引き取られ、官兵衛の訓育を受けつつ成人した。
- 1586年、豊臣秀吉の九州征伐のとき、官兵衛の家臣である栗山利安の与力となる。
- 豊前国では、黒田長政に従い城井氏の一揆鎮圧に臨むも瀕死の重傷を負っている。
- 1600年関ケ原の戦いでは、小早川秀秋の裏切りにより、西軍が混乱する中、石田三成の家臣、大橋掃部を討ち取っている。
- 関ケ原戦後は、大隈城(福岡県嘉麻市)の城主となり、16,000石の知行を受けた。
官兵衛のみるところ、長政よりも又兵衛の方が器量が優れていいたため、官兵衛の教育的情熱は、亡友の遺児に傾いていたような観がある。
又兵衛は、幼い長政の遊び相手として育てられるうち、又兵衛の方が官兵衛より器量を深く愛された。
播磨灘物語|司馬遼太郎
黒田長政との確執、黒田家を出奔
官兵衛が死ぬと、主君である黒田長政との関係性が悪化し、黒田家を出奔することとなる。不仲説は諸説あるが、長政と又兵衛は、幼少期より官兵衛から訓育を受けた競争相手であり、主従関係が希薄であった。
- 官兵衛が又兵衛の才能を見出し、長政より寵愛していた。
- 城井氏との合戦において大敗した際、長政が頭を丸めて謝罪したが、又兵衛は「戦に負けるたびに、頭を丸めていたらキリがない。」と発言。又兵衛は不問となったが、長政の面目を潰すことになった。
- 文禄の役において、長政の一騎打ちに加勢せず、又兵衛は「この程度で討たれるようでは、我が主君ではない。」と発言し、見物していた。
- 慶長の役において、又兵衛が虎を退治したことに対し、長政は「大将たるもの、獣と優劣を競うとは情けない。」と不仲を象徴するような発言があった。
- 長政と不仲であった細川忠興との交友が深かった。
黒田家出奔後、親交のあった細川忠興を頼ったが、黒田家と細川家はもともと不仲であり、両家が一色触発の事態に陥った。又兵衛の名声は世に広く知られており、他家からも召し抱えの声がかかるが、長政から奉公構が出されていたことから仕官が叶わず、浪人生活を送ることとなる。
播磨灘物語|司馬遼太郎後藤又兵衛
「如水軒(官兵衛)さまのお子はたしかに殿(長政)ではあろうが、衣鉢のほうは、自分の方こそ継いでいる。」
大阪の陣
1614年、浪人生活中の又兵衛は、豊臣方の誘いを受けて大阪城に入場する。今までの実績から大阪五人衆(後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登)の1人に数えられ、豊臣方の中心人物として、大野治長らを補佐した。
1615年5月、大阪夏の陣、道明寺の戦い。又兵衛は、約2,800の軍勢を率いて平野から進軍した。奈良街道を東進し、藤井寺(大阪府藤井寺市)に到着したが、霧が深く真田幸村など別動隊は、予定どおり着陣できなかった。
別動隊が着陣せぬまま、後藤隊は徳川方の部隊と小松山をめぐって衝突。徳川方は、伊達政宗、松平忠明など合計23,000の大軍であり、後藤隊は多勢に無勢であった。伊達家重臣、片倉重長が率いる鉄砲隊と激戦を繰り広げ、しだいに包囲された形になり、又兵衛は討死。後藤隊も壊滅してしまった。享年56歳。


まとめ
大阪の陣における又兵衛の死については諸説あり、松平忠明の配下が首をとったとも、銃撃により歩行困難となったところを、家臣に介錯させたとも伝わっている。 また、史実では討死となっているが、豊臣秀頼や真田幸村とともに、薩摩の国島津氏を頼って生き延びたとの生前説も残っている。
後藤一族の墓は、鳥取県鳥取市の景福寺にあるが、ほかにも大阪府柏原市の玉手山公園、奈良県大宇陀町の薬師寺、愛媛県伊予市の長泉寺、大分県中津市の耶馬渓などに碑や供養塔、伝承墓が残っている。
奈良県宇陀市、屋敷跡と伝えられている場所には、又兵衛桜(シダレザクラ)という大木があり、今でも多くの観光客が訪れ、人々に愛され続けている。